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浦沢直樹 |
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20分 |
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142 |
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キャラクター紹介へ |
001 |
警官A |
まったくどうしようもないな。 |
002 |
警官B |
いつになったらこの洪水はおさまるんだ? |
003 |
N |
1995年、ドイツ、ケルン――――― 警官二人がひとつのボートに乗り、オールで漕いでいる。 ただしその場所は、湖や川ではなく、市街地であった。 |
004 |
警官A |
何十年かぶりの大洪水だって? |
005 |
警官B |
それどころか今世紀最悪だそうだ。 |
006 |
警官A |
いわゆる世紀末ってやつか? |
007 |
警官B |
ベルリンの壁が崩壊して、世の中変わるかと思ったが、ろくなことがない。 |
008 |
警官A |
ヨーロッパ統合とかいったって、そこらじゅうからろくでもないのが流れこんでくるしな。 |
009 |
警官B |
ああ、わけのわからん犯罪が増える一方で、いい迷惑だ。 |
010 |
警官A |
まったく・・・ |
011 |
警官B |
おっと・・・ |
012 |
警官A |
警部!!到着しました。こちらが現場です!! |
013 |
N |
市街地だった場所というべきか。どの建物も一階が冠水するほどに水が入り込み、一見してそこが街だとは気づけない。 主要な通り道には渡し板が設置され、ルンゲ警部以下、捜査にあたる者たちはボートからそこに乗り移る。 ひとひとりすれ違うのがやっとであろう渡し板の上には二つ、死体袋が並べて置かれていた。 |
014 |
ガンツ刑事 |
二遺体ともナイフで首を切り裂かれています。発見者はこの渡し板を歩いていた近所の主婦です。 |
015 |
ルンゲ警部 |
身元は? |
016 |
ガンツ刑事 |
はい、シュテヒ通りに住むライヒマン夫妻です。半月ほど前から姿を見かけなくなったと近所の人間が証言しています。 殺害現場は夫妻の自宅でした。納戸に隠されていた遺体が、流れ出たものと思われます。 中年夫婦殺人・・・・・・過去二年間でドイツ全州にわたり四件・・・・・・しかもすべて同じ手口です。 裕福な中年夫婦ばかり狙った物盗りでしょう。許せませんよ。 |
017 |
ルンゲ警部 |
いや、物盗りと判断するには早すぎるな。このデータからすると・・・・・・・・・ |
018 |
ガンツ刑事 |
はい? |
019 |
N |
ルンゲの手が、タイピングをするかのようにカタカタと動く。 |
020 |
ルンゲ警部 |
なぜか、すべての被害者夫婦に子供がいない。 |
021 |
ガンツ刑事 |
は・・・はい、ルンゲ警部。そういえばこの夫婦にも子供はいません。 |
022 |
ルンゲ警部 |
ただの物盗りと判断してしまうには、余計な共通項だと思わないかね? |
023 |
ガンツ刑事 |
は・・・はあ。 し・・・しかし、単なる偶然ではないでしょうか。 どの被害者夫婦も中流以上の生活に余裕のある夫婦ばかりですし、それに・・・・・・・・・ |
024 |
ルンゲ警部 |
家から金品が盗み出されている・・・・・・か? |
025 |
ガンツ刑事 |
はい!! |
026 |
ルンゲ警部 |
単独犯なら、あの程度の小額の盗みでもみあうかもしれないがね・・・・・・ |
027 |
ガンツ刑事 |
では、単独犯ではないと? |
028 |
ルンゲ警部 |
非常に厳重なカギと警報装置をつけた被害者宅も二件あった。犯人はそれをいとも簡単に開け、侵入している。 そして、どの夫婦も、たいして抵抗した跡もなく殺害されている。 周囲の人間はいかなる物音も聞きつけていない。単独犯がこれだけのことを手際よくやれると思うかね。 |
029 |
ガンツ刑事 |
は・・・はあ。 |
030 |
ルンゲ警部 |
この男を知っているかね? |
031 |
N |
そういってルンゲは、ガンツに1枚の写真を手渡す。 移っているのは、縮れた金髪に大きな鼻、薄い無精ひげを生やした男である。 ルンゲの手が再びタイプの動きをした。 |
032 |
ガンツ刑事 |
いえ・・・・・・ |
033 |
ルンゲ警部 |
アドルフ・ユンケルス、三十二歳。窃盗の容疑で二度あげられている。しかし、こいつはいつも直接盗みを働かない。 こいつの役割は鍵を開けること・・・・・・いわゆる、"錠前屋"だ。 過去の中年夫婦殺害事件の際、三件の現場近くで目撃されている。 |
034 |
ガンツ刑事 |
で・・・ではこの男が!? |
035 |
ルンゲ警部 |
さあ、どうかな。とりあえず君達、州警察の仕事はここまでだ。 あとは我々、独連邦警察、BKAにまかせたまえ。 |
036 |
ガンツ刑事 |
あ・・・はあ・・・・・・ あ・・・あの、ルンゲ警部、ひとつよろしいですか?その手の動きは何か意味があるんでしょうか? |
037 |
ルンゲ警部 |
君の名前はロベルト・ガンツ。 91年ライン河畔ホテル殺人事件の時、君はたまたま私と昼食を共にしたことがある。 あと、89年のKB観光汽船人質拉致事件では、いい働きをしたそうじゃないか。 そうそう・・・タバコはやめられたかね? |
038 |
ガンツ刑事 |
あ・・・・・・ な・・・なんてすごい記憶力だ・・・・・・・・・・・・ |
039 |
N |
検死を終え、ボートに乗り込むルンゲ。残されたガンツは、その写真をじっと見つめていた。 |
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040 |
N |
デュッセルドルフ・アイスラー記念病院――――― その庭で車椅子に乗った少年と看護婦が凧をあげようとしている。 |
041 |
看護婦 |
それ!! |
042 |
N |
カールが支え、看護婦が勢いをつけて引っ張る。あがりはするもののうまく飛ばず、凧はさかさまを向いて地面に落ちた。 |
043 |
看護婦 |
あ! やっぱりだめね。あたし凧あげなんてやったことないもの。 |
044 |
カール |
もう少しであがりそうなのにね。 |
045 |
N |
その近くをテンマとDr.ベッカーが話しながら歩いていた。 |
046 |
Dr.ベッカー |
それで?どうだった、ゆうべの彼女? |
047 |
テンマ |
え?どうって・・・・・・いい女性だったよ。 |
048 |
Dr.ベッカー |
なんだよ、それだけかよ。彼女、デュッセルドルフ医師会理事の娘だぜ。 まさか食事だけしてハイ、サヨナラってわけじゃないだろうな。 |
049 |
テンマ |
いやあ、それが・・・・・・ 食事中に呼び出しのコールがはいってね。脳梗塞の急患で、あわてて病院にかけつけて・・・・・・ |
050 |
Dr.ベッカー |
なんだってぇ!?おまえなあ、仕事第一主義もいい加減にしろよ!! そりゃ、たしかにアイスラー記念病院の外科部長Dr.テンマっていうだけで、女性は群がってきて、余裕だろうさ。 しかし、いつまでも仕事ばっかりにかまけてると、すごい上玉逃して後悔することになるぞ!! |
051 |
N |
Dr.ベッカーが熱弁するが、テンマは聞いているのかいないのか、凧あげをしている少年らの方へと歩み寄っていく。 |
052 |
Dr.ベッカー |
あ・・・おい!!聞いてんのかよ、外科部長殿! |
053 |
看護婦 |
あっ、テンマ外科部長、おはようございます。 |
054 |
テンマ |
凧かあ。いいね、カールのかい? |
055 |
カール |
おじいちゃんがくれたんだ。退院したら一緒にあげようって。 |
056 |
テンマ |
うまく飛んでなかったみたいだけど・・・中心がずれてるのかな?それとも風向きが・・・・・・ |
057 |
看護婦 |
外科部長、凧あげできるんですか? |
058 |
テンマ |
日本で、子供のころよくやったよ。 よし、高く持ってごらんカール。 |
059 |
カール |
こう? |
060 |
テンマ |
さて、うまくいくかな?・・・・・・それ!! |
061 |
N |
テンマが走る。たこは天高く上がり・・・・・・安定した。 |
062 |
カール |
あがった―――!! |
063 |
テンマ |
よーし!! |
064 |
Dr.ベッカーM |
やれやれ、なに喜んでんだか・・・・・・ 俺がおまえの立場だったら今頃、愛人五人は作ってるだろうよ、まったく・・・・・・ |
065 |
テンマ |
いいぞカール!!そうだ、もっと糸を出して!! |
066 |
カール |
すごいや、Dr.テンマ!! |
067 |
テンマ |
早くよくなって、今度は自分であげるんだぞ、カール!! |
068 |
カール |
うん!! |
069 |
N |
その数刻後、テンマの姿は手術室にあった。 凧あげの時の和やかさとは対照的に、こちらは緊張した雰囲気を持っている。 手術観覧席には、多数の医師・レジデントが、その開始を今か今かと待ち受けていた。 |
070 |
テンマ |
今日のオペは傍トルコ鞍部髄膜腫摘出術だ。右テリオナルアプローチでいく。 |
071 |
医師A |
さあ、よく見ておくんだぞ。テンマ外科部長みずからの執刀だ。 |
072 |
N(レジデント) |
はあー、すばらしいオペだ!脳をほとんどリトラクトしていないとは!! それに、あんなに楽に腫瘍の硬膜付着部が見えているよ!! |
073 |
医師A |
まさに天才脳外科医だ。君達レジデントも脳を愛護的に扱うこと、これを常に心掛けたまえ。 |
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074 |
N |
夜、一人の男が、ゴミ箱やらダンボール箱やらが雑然と置かれた細い路地を、必死の形相で走っていた。 顔を見ると、先ほどBKAのルンゲが所轄のガンツに渡していた写真の男、アドルフ・ユンケルスである。 |
075 |
ユンケルス |
ハァ ハァ ハァ ハァ ハァ ハァ ハァ ハァ・・・・・・ |
076 |
N |
何度も何度も後ろを振り返りながら、まるで何かに追われているようだ。 |
077 |
ユンケルス |
ヒッ・・・ヒイイ!!! |
078 |
N |
ユンケルスは路地を抜け、言葉通り道路に転がり込む。 しかしそこは運悪く、一般の車両が通ろうとした瞬間だった。 |
079 |
ユンケルス |
うっ・・・うわああああ!! |
080 |
N |
あわててブレーキを踏むドライバーだったが、2,3mで車が止まるはずもなく、派手に飛んだユンケルスは頭から血を流して倒れた。 |
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081 |
N |
デュッセルドルフ、ノイエライン総合病院――――― ユンケルスは、通報を受けた救急車によってここに運び込まれていた。 |
082 |
ルンゲ警部 |
患者の容態は? |
083 |
医師B |
いやあ、なんとも・・・・・・手の施しようが・・・・・・ |
084 |
ルンゲ警部 |
そこをなんとかしてもらわないと困ります、ドクター。 |
085 |
医師B |
そ・・・そんなこと言っても、ルンゲ警部・・・・・・ |
086 |
ルンゲ警部 |
患者はこの写真の男ですね? |
087 |
N |
ルンゲは、例の写真を医師に見せる。 |
088 |
医師B |
は・・・はあ。 |
089 |
ルンゲ警部 |
ある事件の重要参考人です。 この男の証言次第で、連続殺人事件の糸口がつかめて一気に解決するかもしれません。このまま死んでもらっては困るんです。 |
090 |
医師B |
しかし患者は頭骸骨骨折に加え、CT上、急性硬膜外血腫が認められ、非常に危険な状態です。うちの病院ではどうにも無理です。 アイスラー記念病院に最高の脳外科医といわれる人がいますが、彼が来てくれるようなら、もしかして・・・・・・ |
091 |
ルンゲ警部 |
最高の脳外科医? |
092 |
N |
その時、ルンゲの左手がタイピングの動きをした。 |
093 |
ルンゲ警部 |
・・・Dr.テンマですね。 |
094 |
N |
しばらくして、病院の前に車が走りこむ。要請を受けたテンマがやってきたのだ。 |
095 |
医師B |
わざわざ来ていただいて、すみません。こちらです。 |
096 |
テンマ |
患者の容態は? |
097 |
医師B |
はい、Dr.テンマ、意識は昏迷状態、瞳孔は片側散大しています。 |
098 |
ルンゲ警部 |
やあ、Dr.テンマ・・・・・・ |
099 |
テンマ |
あの・・・・・・ すみません、どなたでしたっけ・・・・・・ |
100 |
ルンゲ警部 |
九年ぶりですね。院長の葬式以来です。 |
101 |
テンマ |
あ・・・たしかBKAの・・・・・・ |
102 |
ルンゲ警部 |
ルンゲ警部です。お久しぶりです。 あの事件の捜査は、まだ続いています。ご安心下さい。 |
103 |
テンマ |
あ・・・ご苦労さまです。 |
104 |
ルンゲ警部 |
なにしろ、アイスラー記念病院の院長と外科部長、そして脳外科チーフが三人同時に毒殺されたんですからね。 迷宮入りはさせません。この私がね。 |
105 |
テンマ |
よろしくお願いします。私はオペがありますのでこれで・・・・・・ |
106 |
ルンゲ警部 |
こちらこそよろしく。我々BKAのためにもオペは成功させて下さい。 |
107 |
テンマ |
え? |
108 |
ルンゲ警部 |
その患者には、どうしても生きてもらわなくては困るんです。事件解決のためにね。頼みますよ、Dr.テンマ。 |
109 |
テンマ |
・・・・・・。 私は警察のためにオペをするんじゃありません。患者のためにやるんです。 |
110 |
ルンゲ警部 |
ふむ・・・、それで結構。 |
111 |
医師B |
さあ、テンマ外科部長、読影室はこちらです。 |
112 |
ルンゲ警部 |
ほ―――Dr.テンマ、外科部長になられてたんですか。 ずいぶんと出世なさったもんですな――――!! |
113 |
テンマ |
はあ・・・・・・それが何か? |
114 |
ルンゲ警部 |
いえ、その若さでたいしたものですねえ。その勢いでは次期院長の座も間近なんじゃないですか? |
115 |
テンマ |
いえ、私なんかまだまだです。 では、私は急ぎますので。 |
116 |
N |
テンマは扉の内側に消えようとする。しかしルンゲはかまわず続ける。 |
117 |
ルンゲ警部 |
非常に証拠物件の少ない事件でしたよ。 アイスラー記念病院殺人事件の捜査は、難航をきわめています。 手がかりは、被害者の体内から検出された硝酸系の毒物入りキャンディだけでした。 ただ、この手口からわかるように、知的犯罪であることはたしかです。 知的犯罪というのは、被害者と加害者の間に、なんらかの利害関係があるものなんです。 |
118 |
テンマ |
なにが言いたいんですか? |
119 |
ルンゲ警部 |
いや・・・・・・失礼。職業柄、年中こんなことを考えてしまいましてね。 とにかくご安心ください。私の関わった犯罪で解決しなかったものはないんですよ。 ただの一件もね。 |
120 |
テンマ |
・・・期待しています。 |
121 |
N |
それだけ言い残して、テンマは扉を閉めた。 残されたルンゲは独り言のように口にする。 |
122 |
ルンゲ警部 |
あのアイスラー記念病院の殺人事件のあと、最も利益を得たのは・・・・・・・・・・・・ |
123 |
テンマ |
では今から、開頭血腫除去をおこなう。 |
124 |
ルンゲ警部 |
どう考えてもただ一人・・・・・・・・・ |
125 |
テンマ |
急がないと、脳ヘルニアが進行して危ない。 |
126 |
ルンゲ警部 |
Dr.テンマ、・・・あなただけなんだ。 |
127 |
N |
ルンゲがはっきりそう言う。 しかし、手術室でオペにあたるテンマはそのようなことなど、かけらも考えていないのだった。 |
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128 |
N |
数日後。テンマはユンケルスの経過観察のために再び、ノイエライン総合病院に来ていた。 |
129 |
医師B |
当院までわざわざご足労いただいて、本当にありがとうございます、Dr.テンマ。 |
130 |
テンマ |
いえ・・・・・・患者のその後の容態は? |
131 |
医師B |
はあ・・・・・・意識はあるのですが、右瞳孔が開大したままで、左片麻痺はあります。 |
132 |
テンマ |
リハビリはもう開始されていますね。麻痺はじきに戻ります。順調ですよ。 警察の人が面会したがっても、今は断ってください。 |
133 |
医師B |
はあ・・・・・・しかし、あのBKAのルンゲとかいう警部がしつこくて・・・・・・ |
134 |
テンマ |
今は患者の回復が第一です。 |
135 |
N |
テンマはそうとだけ言うと、ユンケルスの病室に入り、その扉を閉めた。 ユンケルスに歩み寄るテンマ。しかし、ユンケルスはそれに気づいているのかいないのか、まったく反応を見せようとしない。 |
136 |
テンマ |
ユンケルスさん、私がわかりますか? ・・・では、この指が見えますか?答えられるようなら、答えて下さい。 |
137 |
N |
すると、今まで無反応だったユンケルスが、口をもごもごと動かした。 |
138 |
ユンケルス |
・・・る・・・・・・・・・ |
139 |
テンマ |
はい? |
140 |
ユンケルス |
・・・・・・来る・・・・・・・・・ モンスターが・・・・・・・・・・・・来る・・・・・・! |
141 |
テンマ |
・・・モンスター? |
142 |
N |
ユンケルスの顔は蒼白だった。そして、その焦点の定まっていない目は大きく見開かれており、テンマの目には彼が、見えないはずの何かにひどく怯えているように映った。 |